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2016
06.01

利他と対話と討論の不毛 ─6月の聖語─

2016-06-01-0001.jpg

 お大師様は説かれました。

菩薩(ボサツ)が心を用いる際は、すべて慈悲により、他者の幸せを先にしている」

 原文です。

菩薩(ボサツ)の用心は、みな慈悲をもって本(モトイ)とし、利他(リタ)をもって先とす」


 仏教に関する論書には、論理や道理や信念から他の宗教や思想を論破する形になっているものも少なくありません。
 お大師様が密教思想の集大成として書かれた「秘蔵宝鑰(ヒゾウホウヤク)」もまた、宗教や思想を鮮やかに分類し、一種のランク付けを行っています。
 しかし、よく読んでみると、決して他を貶め誹謗中傷するものではなく、それぞれのレベルなりに救われ、視線を上げて高みを目ざす道を必ず示しています。
 この一文は、そのあたりの事情を明確にしたものです。
 他者のありようを見つめ、そこに問題点を見つけるのは、自分のプライドや高慢心を満足させるためではありません。

 さて、今は「討論」が盛んです。
 討論めいた他者のこき下ろし番組も喝采を浴びたりします。
 声高(コワダカ)に相手の言葉を遮り、断定的なもの言いで黙らせるといった無礼で浅はかな姿勢がおもしろがられ、思惟をもって生きる学者ですら、お笑い芸人めいた態度をとって恥じることはなくなりました。
 国会で飛び交う日本語は、攻撃、はぐらかし、反撃、の繰り返しに終始しています。
 一方、「対話」はどうでしょう。
 形だけのものが多くはないでしょうか?
 それは利他の問題にからんだ現象であると想われます。

 討論には必ず勝者と敗者があって、勝者が称賛されて終わり。
 しかし、対話はあくまでも対等な者同士の平等なやりとりです。
 自説を述べるのと同じ態度で相手の説に耳を傾けねば対話は成り立ちません。
 必ず相手に対する無言の敬意を前提としており、そこに勝ち負けはなく、両者は、自分のレベルを少しでも越えた何かを共に求める同志です。
 対話において、自分が〈高み〉を欲することは、相手が自分より少しでも〈高み〉にあること、もしくは共に〈高み〉を目ざすことを意味します。
 敬意と謙虚さを持った者同士でなければ、真の対話は成り立ちません。

 ある時、短い沈黙をはさみ、家具職人Aさんは漏らされました。
「作品を評価してもらいたいのではありません。
 どこかの寺院の奧にひっそりとしまわれ、何百年か先に発見され、わかってもらえたらいい、そんな感じです」
 Aさんの日々を想う時、自分の小さな行動も価値あるものでありたい、という密かな願いを禁じ得ません。

 対話は相手が人間とは限りません。
 ジョバンニ・ミラバッシのピアノソロ『アヴァンティ』の「クーデター直前のアウグスト・ピノチェト」は、たおやかな旋律で人間の哀しみを教えて尽きません。
 同じく「コンゴのチェ・ゲバラ」は、禍々しい音で破壊的創造者の英雄性や死の匂いを突きつけてきます。
 ふとしたおりに、脳内で再生されるそれらは、背筋を伸ばさせ、思考の泉となります。
 ミラバッシからの問いかけは尽きず、こちらの心からの応答もまた、途切れません。

 利他と対話について考えることは、現代的〈討論〉の喧騒に流されないために必要であると思われます。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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