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2016
07.14

Q&A(その26)「最期に苦しむ人」とならないためには? ─解き放たれ、委ねる─

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 ほとんどの人は幸せに生きたいと願う。
 そして、安心して死にたいとも、思う。

 幸せに生きるには、この世のことごとについて、この世なりの条理をつかんで処置すれば何とかなる。
 不運や不条理が大きく立ちはだかる時は、自分の心のありようを見つめれば、流れが転換できる。

 安心して死ぬには、まず、寝て、食べて過ごせるように、準備しておきたい。
 逃れられない死に対する恐怖感をどうするかが、最後の難問だ。

 森津純子医師は、医療相談とカウンセリングをもっぱらとし、たくさんの人々を見送った。
 医師が「最期に苦しむ人」と指摘したタイプのうち、二つを考えてみよう。

1 特定の思考に縛られる人

 宗教は人を救い、苦しめもする。
 仏神に守られているという確信は人を根本的に救うが、ドグマに縛られれば危うい。

 仏教の「因果応報」は道理として疑いにくく、倫理の基礎として動かせないからこそ、私たちは、自分なりの精進(ショウジン)を志向する。
 それは、1+1が2と確定していなければ計算が成り立たないのと同じ重要さを持っており、もしも人助けをして撲られ、人を傷つけて誉められるならば、私たちは意思決定できず、発狂してしまうことだろう。

 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教に共通の「最後の審判」もまた、人を善行(ゼンギョウ)へと誘い、悪行(アクギョウ)を制止する思想である。
 善悪の基準がなくなれば、上記のとおりとなる。

 しかし、もしも、最期を迎えた時、自分が犯した過ちを〈上書き〉するだけの善行をしてこなかったと悔いるならば、どうなるだろうか?
 もしも、最期を迎えた時、自分の不安や苦しみを神が与えた罰と考え、押し潰されそうになったなら、逃れられようか?

 いかなる思想も宗教も、いのちと心の世界全体をつかみえない人間にとって、道しるべの一つとしての仮説であることを忘れないようにしたい。
 仮説をどう考え、どう用い、どう生きるかは、一人一人が個別に生まれ、他者と身体も心も交換し得ない絶対の個別性を持った個々人の判断にかかっており、仮説は、一人の人間が生きているという真実全体を動かす主人公ではあり得ない。

 いかなる〈道理〉も〈お告げ〉も、一人の人間の人生に対して責任を持ちようがない。
 そうしたものを生かす主体性を保つか、それとも縛られて自分を追いつめるか、結局は一人一人の問題となる。

2 狭い自分の世界に閉じこもり、他人の言葉に耳を傾けない人

 私たちのいのちは、一瞬たりとも〈おかげさま〉なしには保てない。
 無数の人々との目に見えない縁の糸で結ばれ、守られていればこそ、自分の家で起き、電灯を点し、水を飲み、歯を磨き、新聞を読み、テレビを眺め、朝食を摂り、仕事に向かえる。

 自分の手が届かないところで、お巡りさんが、電力会社の人々が、水道局の人々が、新聞配達員が、報道関係者が支えてくださっており、自分にとってそれらの人々は、言わば〈プロ〉である。
 こうしたプロへ対する畏敬の念を忘れれば、私たちは恩知らずになるばかりでなく、この面でも、あの面でも、どんどんと〈井の中の蛙(カワズ)〉になり、愚かになる。

 この愚かさを助長するのが高慢心である。
 高慢な人は、真の意味で他者をプロと認めず、いかなる面においても自分を常に最上位へ置かないと気が済まず、自分の無知に気づかない。

 しかし、私たちはそもそも、意識では自分が自分の主人公であっても、一瞬後に何が起こるかは、自分で決められない存在だ。
 歩いていれば、一瞬後に懐かしい人と再会するかも知れないし、決して顔を合わせたくない相手が不意に四つ角から現れるかも知れず、自分ではどうしようもない。

 何があっても自分を失わず、平静を保ち、適切な判断を誤らないためには、意外にも私たちは、心のどこかに〈委(ユダ)ねる〉という柔軟性を持っていなければならない。
 委ねる心理がはたらけば、好事や順境に舞い上がらず、悪事や逆境でへこたれない。

 私たちは無数の〈プロ〉たちに囲まれている。
 感謝し、信頼し、委ねた方が、自分を向上させつつ、心豊かに生きられるはずだ。

3 結論

 思想も宗教も、その究極的役割は、私たちを〈解き放つ〉ことにあるのではなかろうか?
 米大リーグのイチローは、徹底した自己管理によって、自在にボールを打てるようになった。
 私たちも、真剣に真理・真実を求め、研鑽して行けば、決して縛られるのではなく、解き放たれた地点に近づけるのではなかろうか?

 私たちは、自分があらゆる面で自分の主人公になろうとし、ありがたいプロの面々に囲まれていることを忘れているのではなかろうか?
 病気になれば病院に通いつつ、医者の言うことを信じずに、ネット上のおかしな情報に迷う。
 相手を見極めて信じ、委ねるのは、決して自分を失うことではなく、自分が柔軟になり、霊性がはたらきやすくなっていることを意味する。

 解き放たれ、委ねるならば、「最期に苦しむ人」とならずに旅立てるのではないかと思える。
 お釈迦様は、「川を渡ったならば、それまでの頼りだった筏(イカダ)は置いて、その先を自分の足で歩め」と説かれた。
 不安と苦しみの中で出会ったものを信じ、研鑽し、誠心を尽くした先にある広大で自由な世界が予感されるではないか……。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





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