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2016
11.18

葬儀・葬式とは何か? ─語られていない真実─

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 以下は、一宗教者として日々、救いと安寧を求める方々に接し、祈り、生きている真実に立って書いた。また、人は死んでもまったくの無にはならないという人類の発祥以来培ってきた感覚を前提としている。
 また、スペインの思想家ウナムーノの指摘に対する深い共感もベースとなっている。

「人間を他の動物と最も明確に区別するものは、人間は何らかの形で死者を保管し、万物を生み出す母なる大地の恣意にまかせるようなないがしろな態度は決してとらないということであるといえよう。
 つまり、人間は、死者守(モリ)動物なのである。」

「生きている者のために、不順な天候が破壊してしまうような土の家や藁小屋しか作らなかった時代に、死者たちのためにはすでに墳墓が建造されていた。
 石は、住居よりも以前に、墓のために用いられたのである。」


 こうした「死者守動物」としての人間にとって、ご葬儀とは何か?

○死者にとっては、この世での役割を終え、あの世へ旅立つための宗教行為

 死に逝く人は、誰もが安心の裡に旅立ちたい。
 元気なうちは切実な実感がなくとも、いざ、その時が近づくと、不安や焦燥感や執着心が起こり、それを抱えたままでよいと思う人はいないだろう。
 しかも、財産であれ、名誉や権力であれ、親しい人であれ、世間的に価値あるはずのものは、追いつめられた状況を解決してくれない。
 お釈迦様は説かれた。

「死に迫らるれば、親(シン…親しい人)とても頼むべきなし」


 未体験の非日常的できごとである死を迎え容れるには非日常敵次元における真実である宗教的感覚を眠りから覚ます必要がある。事実、当山にご縁の方々は、その方なりに祈る心を持ち、従容として旅立たれている。
 求める救いはいったい、どこにあるか、自分の心をよくふり返る必要があるのではなかろうか?

○遺族にとっては、感謝と報恩の思いを込め、死に逝く人の安寧を祈る宗教行為 

 死に逝く人の人生に対して畏敬の念を持っていれば、決して〈手続き〉では済まされない。
 たとえば、死を迎える親の恩を思い、自分の親不孝を振り返る時、どうにもならないもどかしさを感じるのではなかろうか?
 たとえば、自分のいのちに代えてでも守りたいと念じつつ育てた我が子を送らねばならない時、断腸の思いと共に、行く先での安寧を願わない親はいるだろうか?
 そうした思いを何とかする日常的手段はない。
 日常生活に亀裂や断絶が生じる時、救いになるのは、非日常的世界から伸ばされる目に見えぬ思いやりの手である。

 また、忘れてならないのは、故人が生き抜いた人生のおりおりに、ご縁となり、お世話になった方々へ故人に成り代わり、逝去の事実と、遺族としての謝意を伝える重要な機会であるという点である。
 誰一人、自分だけで生きられる人はいない。
 死という区切の際にお礼を述べないで済まされようか?

 去る当人としても、ひっそりと、なるべく手を煩わさせないで逝きたい気持は同意できるが、一方で、規模の大小を問わず、きちんと公に「おかげさま」と社会へ向かって思いを発することは、社会内で生きた者としての責務と言えるのではなかろうか?
 喪主の挨拶を単なる形式にすべきでなはい。
「故人にお寄せいただいたご厚情にあらためて心から感謝申し上げますと共に、遺された私たちへも変わらぬご指導・ご鞭撻をお願い申し上げます」
 この麗しき文化を弊履の如く捨て去ってよいとは到底思えないのだが……。

○宗教者にとっては、死者にこの世とあの世の区切をつけ、遺族に死を受け容れ、身近な人の死を縁として人生の真理を見つけていただく宗教行為

 冒頭に挙げたウナムーノの言葉は、11月16日付の河北新報で報じられた小生の『死者への畏敬こそ重要』へ書いたものである。
 人類は発祥以来、生きるために生きてきた。ケモノや鳥や魚を追い、穀物や野菜を育て、都市を造る過程で、たやすく肉食動物の餌となる弱い肉体の持ち主であることはほとんど忘れられ、祈りや医術によって、死はどんどん先へ延ばされてきた。
 それでも、いつかは必ず死ぬ。
 ネズミやリスと同じ齧歯類(ゲッシルイ)から進化してきた人間は、彼らと同じくいまだにビクビクし、危険や不快を感じるとたまらなくなり、病気にもなる。
 それでも支え合って生きるが、最後は必ず死ぬ。
 そうした〈仲間〉である人が死んだ時、私たちは決して仲間を放置できなかった。
 これまでウナムーノの言う「死者守動物」にならないではいられなかったし、今でも同じである。
 そこに、〈尊厳〉を感じとれる生きものとしての人間の真骨頂がある。

 日常生活的な方法だけでは、死と共に顕れる尊厳に応えられない。
 だから、非日常的な修行を続け、尊厳の世界に生き、尊厳の世界と日常生活を結ぶ力を養いつつ生きている聖職者が、死に逝く人にとっても、送る人にとっても必要だった。
 いざという時のために、皆で力を合わせて宗教の場を守ってきた。
 あくまでも自発的に。
 事情は今でも同じである。
 少なくとも当山においては。

◇現状について

『死者への畏敬こそ重要』にはこうも書いた。
「現実を眺めてみると、今の生をどこまでも謳歌するのみで、死をほとんど〈ないもの〉として脇へ置くかのごとき様相である。
 死者を簡便に片付けようとしている。
 それを促す方向で、死者までも、効率と競争の経済第一主義の原理に取り込もうとする社会がある。
 私たちの文明はこれで大丈夫だろうか。」

 ご葬儀は決して日常生活の延長としての単なるお別れ会ではない。
 あの世へ送る場は人類の発祥以来ずっと、崇高で厳粛な宗教的空間だった。
 お別れ会で済ませているのは現代日本人に特有の状態である。

 当山へご相談に訪れる方々はどなたも真摯である。
 突然、ご葬儀や、お戒名や、お納骨の依頼をされる方々は異口同音に「ようやく見つけました……」と言われる。
 皆さんは、自らの死や身近な人の死と正面から向き合い、亡くなった人と正面から向き合っておられる。
 ご葬儀は〈通過点〉でしかなく、自分の心は続き、あの世も続き、寺院と僧侶が不断にその世界を守っていることを感じておられる。
 文藝春秋の12月号「親と子で終活に備える」では、誰もこうしたご葬儀と宗教世界の真実を述べておられないが、当山とご縁の方々の間には揺るがぬものがある。
 それを信じ、そのパワーをいただき、感謝しつつ今日も法務に邁進したい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=rWEjdVZChl0





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