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2008
01.09

四諦について 4 ―集諦その3― 

 霊性の邪魔をする十の煩悩の残り4つです。

貪欲(トンヨク)…むさぼり。

 日本人には貪る醜さを嫌う心性があり、古来、「慎み」を美徳としてきました。
 本ものの「徳ある人」や「人格者」で、この美徳を備えていない人はおられません。
 貪る醜さは、腹がパンパンに膨れてなお求め続ける餓鬼の姿が端的に表しています。
 自分の心に餓鬼がいないかどうか、省みたいものです。

瞋恚(シンニ)…怒り。

 私たちは、自分の考えや気持に違うものに対して我できない心の暴れを発します。
 それが怒りです。
「腹が立つ」とはよく言ったものだと感心してしまいます。
 ムカッとなった後は、爆発が収まっても憎悪が残り、それを何度も何度も思いだして「石へ文字を刻むように」怨みを深める場合すらあります。
 自分で自分の心へ毒を溜め込むとは何と恐ろしいことでしょうか。
 私たちがみ仏のご宝前や墓前へ花を捧げるのは、雨風に耐えてじっと咲く花を目にして、「この花のように何ごとにも堪え忍び、人の道をまっとうします」と誓い、ご加護を願うためです。
 花の導きと救いを忘れぬようにしましょう。

 また、不動明王や愛染明王などの明王様方が、聞き分けのない子供を健全に成長させるために親が叱るのと同じく、〈相手のために役立つ怒り〉を発しておられることも忘れぬようにしたいものです。
 義憤は正義を実現するために欠かせません。
 怒りが自他を傷つける毒かそれとも自他のために必要な破邪の剣なのかを判断するために、相手、あるいは誰かを思う心があるかどうかを確認しましょう。
 社会悪としての共業(グウゴウ)へ立ち向かうには、観音様の思いやりと不動明王の怒りが必要なのです。

愚痴…愚かさ。

 道理に基づく智慧がはたらかないことです。
 謙虚に真理・真実を求める姿勢がないと、道理の感覚は身につきません。
 サイコロを振って行く道を決めるような我(ガ)に任せた人生を送っていると、自分の運命を暗く彩るだけでなく、縁の人びとを傷つけ運勢を暗い方向へと道連れにしてしまいます。

 世間では「愚痴を言う」と使われています。
 口に出してもどうにもならぬことを言わずにはいられない、それ自体が愚かさの現れですが、口にすることでストレスを発散できるという一定の効果はあるそうですから、無下に否定してしまうのも可愛そうではあります。
 しかし、こうしたいわゆる愚痴は、根本的に現在を浪費させ、未来を空白化させます。
 だから、隠形流居合の稽古で用いる『七言法』の最初に、愚痴を言わぬ誓いがあります。
 自分へ対する厳しさをつくるためには、愚痴を離れるところから始めねばなりません。
 
心。

 自己中心的な驕りの心です。
 これが強い人は、よく居直ります。
 居直った姿には我(ガ)がむき出しになっておりこの上なく醜いものですが、本人は気づきません。
 哀しいことです。
 よく「カエルの顔へおしっこをかけたような」と表現しますが、顔がツルンと硬質で「平気の平左」と書いてあったり、脂ぎった炎を発する顔に「文句があるか」と書いてあったりします。
 こうした顔になっているかどうかは、地位や名誉や職業や学歴や収入とはまったく関係ありません。
 おそらく本人は、それを強さと勘違いしているのでしょう。
 残念なことです。

 もちろん、一見したところ同じようなタイプでも、心から離れて、さらりとした爽やかさが漂っていたり、信頼感を伴う意欲に溢れていたりする方は、とても魅力的なものです。
 ここでは、「タイプ」をけなそうとするのではなく、他人の制御されていない我を観て自分を省みようとしています。
 
 ここまでの10の煩悩が、苦を招く原因です。
 次回は、それを取り除く道筋を考えましょう。
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