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2008
11.25

日本の歌 96 ─夕焼小焼─

夕焼小焼
  作詞:中村雨紅 作曲:草川信 大正12年、新しい童謡( 一)」に発表

1 夕焼小焼で 日が暮れて
  山のお寺の 鐘(かね)がなる
  お手々つないで 皆かえろ
  烏と一緒に 帰りましょう

2 子供が帰った 後からは
  円(マル)い大きな お月さま
  小鳥が夢を 見る頃は
  空にはきらきら 金の星


 寺院の鳴らす鐘によって庶民が時を知る時代があった。
 作詞された大正8年の東京府南多摩郡恩方村(現在の東京都八王子市)では、当時も鐘が撞かれていた。
 今は、特別な場合を除けば、大晦日に除夜の鐘が鳴らされるくらいのものである。
 当山のある大和町では、朝、昼、夕と、いろいろな町内放送がある。
 うるさいと感じる人もいることだろうが、地域を一つのまとまりとしてとらえる考え方が行政と町民との間で共有されているから成り立っているのだろう。
 当山の『宮床弘法水』を掘り当ててくださった井戸掘りの〈神様〉Aさんは、都市部の依頼をすべて断っている。
 必ず近所の住民からクレームが入るので、音、振動、排水といった工事につきものの処置ができない。
 アトム化(孤立化)の進む都会人が「おたがいさま」という観念を保ち続けるには根気が要る。

 さて、1番は、鐘の音を聞いた子供たちが手に手を取って家路を急ぐ光景である。
 迫り来る闇から逃れて家族の待つ明るく安全な家へ帰る素直な子供たち──。
 それは、大人たちに夜明けと共に起きる生活があったことと密接に結びついている。
 時代は変わった。
 太陽が昇り、沈む24時間の流れと無関係に人々は生きるようになった。
 しかし、生きものとしての人間は、依然として体内時計を抱えたままである。
 そのリズムとずれた生活のもたらす危険性は疾うに気づかれ、警鐘も激しくなってはいるが、人間はなかなか「自由」をやめられない。
 子供が自由をやめられないのも当然である。
 この文明はどこへ行くのだろうか。

 子供にとって山へ帰るカラスは身近な仲間だった。
 今でも絵本などではウサギやカメなどと並んで可愛らしく描かれているが、特に都会人にとって、カラスはゴミを散らかす敵でしかない。
 大人が敵と感じているものへ子供が本当に親しみを持てるわけがない。
 つまり、1番は、もう、失われた光景である。
 しかし今でも唄い継がれているのは、2番があるからではないだろうか。

 2番の光景は、子供たちが実際に目にするものではない。
 怖れや不安を伴った夕闇の後には、月と星の世界が広がる。
 円い月は、家族と憩う子供たちをその目に見えないところから見守り、輝く星々もまた、団らんへ拍手し祝福してくれている。
 それは、小鳥たちにとってもまた同じである。
 2番を唄う子供たちは、無意識のうちにその約束を信じる。
 こうした世界の支えを信じればこそ、家で褒められようが叱られようが、子供たちは安らかな眠りにつける。
 宗教感覚に通じる〈絶対の守護感〉にこそ、この歌の真骨頂がある。
 教師の方々はそこに気づきながら指導して欲しいと願う。

2008
11.23

日本の歌 95 ─夕日─

夕日
  作詩:葛原しげる 作曲:室崎琴月 大正10年発表

1 ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
  ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
  まっかっかっか 空の雲
  みんなのお顔も まっかっか
  ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む

2 ぎんぎん ぎらぎら 夕日が沈む
  ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む
  烏よ お日を 追っかけて
  まっかに染まって 舞って来い
  ぎんぎん ぎらぎら 日が沈む


 この歌は古い幼少期の記憶につながっている。
 4才で角田市(当時は角田村)から仙台市へ出てきたばかりの頃、祖父も父も商売をやり、母は教師で忙しかった。
 ある大雨の夕刻、床屋から帰れなくなり、理髪師さんがおぶって家へ帰してくれたことがある。
 雨だから夕日とはまったく関係ないはずなのだが、なぜかこの歌と一緒に思い出される。
 カラスへ、沈んで行く太陽を追って真っ赤に染まれと語りかけていた記憶はない。
 面白いものである。
 記憶はモザイクのようになっているのだろうか。

 さて、あらためて詠んでみると、「ぎんぎん ぎらぎら」は秀逸である。
 特に、子供がねぐらへ帰るカラスと対比させてとらえる時の夕日は、「ぎらぎら」である。
 子供は顔が赤く染まる頃に帰宅せねばならない。
 山の稜線を黒々とそしてくっきりと描き出す頃の夕暮れがかもし出す興趣は、もっと大人にならないと解らない。

 有名なエピソードがある。
 当初は「きんきん きらきら」だったが、小学2年生の娘から「お父さん、『ぎんぎんぎらぎら』でしょう」と指摘されて、変えたという。
 大人が夕日に見る金色は「きらり」だが、まだ幼い生命が受けとめる夕日の赤みを帯びた金色は輝きながら圧倒的に迫ってくる色であり、「ぎらり」という有無を言わせぬ迫力を伴っているのだ。
 彼はおそらく、意見に「そうか!」と膝を打ち、ただちに変えたのだろう。
 西條八十の『赤い鳥』による童謡運動と激しく対立し、子供たちのための歌は、子供たちの感性に合わせて創られるべきであって、大人の趣味を混ぜてはならないと主張していた葛原しげるらしいできごとである。
 そのために、決定的な歌詞が誕生した。

 子供たちは「ぎんぎん ぎらぎら」の力を感得できる少年少女であって欲しい。
2008
11.21

日本の歌 94 ─椰子の実─

椰子の実
  作詞:島崎藤村 作曲:大中寅二 昭和11年「国民歌謡」に発表

1 名も知らぬ 遠き島より
  流れ寄る 椰子の実一つ
  故郷(ふるさと)の岸を 離れて
  汝(ナレ)はそも 波に幾月(イクツキ)

2 旧(モト)の木は 生(オ)いや茂れる
  枝はなお 影をやなせる
  われもまた 渚を枕
  孤身(ヒトリミ)の 浮寝(うきね)の旅ぞ

3 実をとりて 胸にあつれば
  新(アラタ)なり 流離の憂(ウレイ)
  海の日の 沈むを見れば
  激(タギ)り落つ 異郷(イキョウ)の涙

4 思いやる 八重の汐々(シオジオ)
  いずれの日にか 国に帰らん


 明治31年、東大生の柳田國男が愛知県田原市の伊良湖岬で椰子の実を拾い、日本民族は南方から渡来したというインスピレーションを抱いた。
 その話に興味をそそられた島崎藤村がこの詩を書き、『落梅集』へ収めた。
 伊良湖岬は日本列島のちょうど真ん中あたりにあり、実際に、椰子の実が南国から流れ着くことがある。
 遺伝子の研究によると、他の民族と同じく日本人の起源は多々あり、血の多くはバイカル湖付近の中央アジアや上海付近の東中国などから入っているが、東南アジアから入っているものもある。
 混血は人類の宿命である。
 遺伝子が混ざる度合いが高いほど高いレベルの文明を創る傾向があり、生き残る力も強いという。

 柳田國男島崎藤村が南方系の血筋を強く引いた人なのかどうかは知らないが、一個の椰子の実に起源を感じた衝撃を共有した成り行きは理解できる。
 私たちは、ふと、「自分はどこからやってきて、どこへ行くのか?」と疑問を覚える。
 その多くは時間的なもので、過去と未来へ想いを馳せることになるのだが、乳幼児の蒙古斑を目にしたり、日本人とそっくりなチベット人を見た時などは空間的な想いも芽生える。
 遙かな祖先たちは何を考え、何を望みながら海を渡り、砂漠を歩み、山を越え、森を抜けたのだろうか。

 それにしても、島崎藤村は熱い。
 一番では、椰子の実に興趣をそそられ、語りかける自分がいる。
 二番では、椰子の実と心の旅人である自分とを重ねている。
 三番では、自分が浜辺にいながら、心は「流離の憂い」を新たにし、「異郷の涙」が激り落ちる椰子の実になっている。
 四番では、もう自分はどこにもいなくなり、ただただ故郷を偲ぶ一個の椰子の実になり果てている。
 詩人の魂をここまで高揚させた柳田國男は鋭い。
 こうした偉人たちの文化伝統を生きられる私たちは幸せ者である。
2008
11.18

日本の歌 93 ─紅葉(もみじ)─

紅葉
  作詞:高野辰之 作曲:岡野貞一 明治44年『尋常小学唱歌 第二学年用』に掲載

1 秋の夕日に 照る山紅葉
  濃いも薄いも 數(カズ)ある中に
  松をいろどる 楓(カエデ)や蔦(ツタ)は
  山のふもとの 裾模樣

2 溪(タニ)の流に 散り浮く紅葉
  波にゆられて 離れて寄つて
  赤や黄色の 色さまざまに
  水の上にも 織る錦


 子供の頃、二部合唱を行い、気持ちの良い歌だなあと思っていた。
 紅葉のイメージに強く惹かれた記憶はない。
 この道へ入り、経を学んでから、紅葉、そして錦はとても身近なものとなった。
 山裾を彩る紅葉を象徴とする教えがあり、この歌を思い出してハッとさせられたからである。
 東洋哲学の最高峰に位置すると思われるこの経文は、人生の局面や心模様のパターンを384枚のイメージカードとして整理したようなもので、やはりイメージの宗教である密教を学ぶ者にとって、非常にすんなりと理解できた。

 そびえ立つ山の麓に山村があり、点在する民家を包む紅葉の紅、イチョウの黄色。
 収穫の秋を祝う色鮮やかな裾模様は冬将軍を迎える絨毯でもある。
 日本列島は、紅葉前線が南下するうちに立冬を迎える。

 美しく着飾り、祝う自然、そして巡り来る厳しい冬。
 私たちの人生もまた、こうしたところを経つつ過ぎて行く。
 与謝蕪村はこう詠んだ。
「山くれて 紅葉の朱を うばひけり」
 歌人の眼は、夕暮れに、もう、冬を観ている。

 澄んだ池の浅瀬に沈んでなお色を際だたせ、、あるいは揺れながら川面を去って行く深紅の秋の印章を見つめる時間を大切にしたい。
2008
11.16

日本の歌 92 ─めだかの学校─

めだかの学校
  作詞:茶木滋 作曲:中田喜直 昭和26年NHK「幼児の時間」で発表

1 めだかの学校は 川の中
  そっとのぞいて みてごらん
  そっとのぞいて みてごらん
  みんなでおゆうぎ しているよ

2 めだかの学校の めだかたち
  だれがせいとか せんせいか
  だれがせいとか せんせいか
  みんなで元気に 遊んでる

3 めだかの学校は うれしそう
  みずに流れて つーいつい
  みずに流れて つーいつい
  みんながそろって つーいつい


 3歳まで農村で育った私にとって、メダカは特別な存在だった。
 茅葺きの家のそばにあった小さな流れはところどころに淀みを作り、そこには群れをなして泳ぐメダカたちがいた。
 4歳で仙台の街に移り住んだが、いつしかヒメダカを飼うようになり、中学生の時は、ヒメダカが色や形や音や味などにどう反応するかを調べて研究発表をした。
 水槽で飼い、池で飼いし続け、山里暮らしになった今は、本堂前の小さな池が彼らの栖である。
 糸のような子供たちが生まれるとホッとする。
 ご参詣の方々の中に小さなお子さんを見つけるたびに、「メダカがいるよ」と声をかけてしまう。

 去年、小学校の校庭にビオトープがあるというので見に行った。
 寺子屋を行うお堂の近くにそうしたものを作り、メダカを見せたかったからである。
 美しい流れにメダカはいなかった。
 今、メダカは絶滅が危惧されている。
 しかし、日本人の意識が変わり、政治がまっとうなものになれば、米の重要性と田んぼや里山の価値が見直され、農業の復興と共にメダカも救われることだろう。

 水族館へ行き、大きな魚たちが巨大な群れとなって方向を変えつつ泳ぐダイナミックさに目を奪われるのも結構だが、水辺にしゃがみ、メダカたちが先頭の動きにつれて泳ぎ回る様を眺めるのも佳いものである。
 子供たちから、この「佳さ」を解る心が失われないよう、祈る思いである。
 幼い頃この歌になじんでいれば、都会の子供たちも、ペットセンターなどへでかけた時、必ずメダカが目にとまることだろう。
 じっと眺めて欲しい。
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