--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2016
10.27

Q&A(その31)一〈こんな自分〉に苦しむ時は? ─謙虚さ・誠意の先を考える─

2016-10-27-0002.jpg

2016-10-27-0001.jpg

 を持って介護職に就き、誠心誠意はたらいていると、自分自身の心や身体が〈あるべき状態〉に追いついていないと感じる場合がある。
 そして、自己嫌悪に陥ったり、立ち塞がる壁の圧迫感に潰されそうになったり、あるいは、そもそも自分が仕事に不向きだったと諦めたりもする。
 やらねばならない、やるべき仕事であることは重々承知し、準備万端整えたはずなのに、〝私にはできない〟と自分の何かがブレーキをかけてしまう。
 自分が、〈はたらかねばならない自分〉と、〈はたらけない自分〉の二つに、引き裂かれそうになる。
 やるべきことはわかっており、何ら問題なくはたらけるはずの自分であることを知っているだけに、この状況は辛い。

 小生もそれに通じる苦しみを嫌というほど味わった。
 托鉢を始めた頃である。
 伝授された作法を身につけ、歩く以外の生きようはなく、歩く準備もできたのに、目的地へ着いて車から降りられない朝がある。
 網代笠(アジロガサ)をかぶり、白足袋を履いても歩き始められない。
 理由の一つが上記の方々と似ていた。

〝──こんな自分のままで仕事をしては嘘になる……〟

 たとえば、出がけに妻と口論になり、時間がないので最後は怒鳴ったり、無視したりして強引に車を発車させた。
 こんな心のままで、どうして善男善女からお布施をいただけようか。
 玄関のチャイムが鳴り、托鉢僧を見て「どうぞ」と受け入れてくださる方々の多くは、合掌される。
 もちろん、決して自分が相手から拝まれるわけではなく、目に見えぬみ仏の世界へ向かっての合掌ではあるが、自分がそうした場面に立っては申しわけない人間であることを誰よりもよく知っている。
 しかも、お布施をいただいてよいのだろうか?
 こうした疑問と葛藤は、さまざまな法務の場面に付きものだった。
 人生相談もしかり、ご祈祷やご供養もしかり、〝こんな自分なのに〟という意識に苦しんだ。

 とうとう耐えきれなくなり、どうすればよいか、師へ訊ねた。
 答は簡単だった。
「あなたは、ご縁になるべき人としかご縁にならないのだから、結果はご本尊様へお任せして誠意を尽くせばよい」
 この一言で雲は晴れ、托鉢行を続けているうちに一山の開基を迎え、文字どおりの無から現在の法楽寺が生まれた。

 人生相談に訪れる善男善女のお話を聴き、この教えをお伝えすると、まじめであるがゆえに苦しむ人々にとって〈脱する〉ヒントとなり、心で手を取り合う思いになったりする。
 私たちは、仕事に責任感を持つ時、自分にかかわってくることごとのすべてに対して、完璧な対応をしないではいられない。
 しかし、私たちは、どこかに未熟な部分を抱えた〈未完成な存在〉である。
 研究者、技術者、芸術家、宗教者、教育者など、いかなる方面であれ、仕事を突き詰めている人のほとんどがその真実を自覚しているはずだ。
 米寿を超え、勲章を受け、功成り名遂げたはずの長老ですら「自分はまだまだ修行中」と言う。
 それは謙遜と言うよりも、むしろ実感だと思う。
 テレビドラマ『ドクターX』の大門未知子に人気が集まるのは、不可能を可能にする夢が実現されているからだろう。
 ひとときの虚構が、私たちの行き詰まりを忘れさせてくれる。

 言い方を変えれば、外からやってくる縁は無限であり、その中に、神ならぬ自分の力をもって、この上ない結果へ導き得ないものが含まれているのは当然なのだ。
 そして、自分の意思ですべての縁を選ぶこともできない。
 ならば、その事実を真実としてありのままに観るところから始めるしかないではないか。
 ところが、問題を孕んだ責任感がその邪魔をする。
 すべてをカバーしなければ満足できない、不安になる。
 そこに、私たち自身の気づきにくい慢心が潜んでいるのではなかろうか?

 師が「ご縁になるべき人」と言われたのは、「あなたが百点満点の対応ができる人」という意味ではない。
 もしも今、誠心誠意の中でとった対応が客観的に見て70点であっても、それがいかなる結果をもたらすかは、誰にもわからない。
 そもそも、〈未完成な存在〉が常に満点の行動をとれるわけがないのだ。

 そんないいかげんなことでよいのか?
 もしも手術が70点などということで許されるのか?
 100点満点はたくさんあるだろうに。
 こうした疑問や反論が考えられる。
 それについてはこう答えたい。
 たとえば、マスコミが流す医師や病院に関する〈成績〉などのデータは、見せられる私たちがそのまま丸呑みにできない事情を抱えている。
 個人や私的な組織だけでなく、政府や役所ですら、よいデータを流したい。
 マスコミは視聴者の耳目を惹き付けたい。
 抜きがたい意思は必ず作意する。
 もちろん、〈業界〉の外からは気づかれないように。
 だから、〈うまい〉データは眉にツバをつけて眺める必要がある。

 では、「ご縁になるべき人」とはどういう意味か?
 おそらく、「誠心誠意の中で、互いに縁を生かし合える人」だろうと思う。
 私たちは、〈うまくやる〉のではなく、〈誠心誠意やる〉以外、よき生き方はできない。
 自分の至らない点は客観的に、冷静によく見つめ、向上心をもって進むしかない。

 70点の自分が100点でないからといって〝こんな自分のままで……〟と苦しむのには微妙な錯覚がある。
 そこには、〝自分は本来100点であるべきだ、その自分になっていないなんて〟という勝手な思い込みがあるのではないか。
 よく考えれば、それは、誠意や責任感という皮をかぶった慢心というものではなかろうか?
 プロ野球を眺めてみよう。
 中には大谷選手のように時速160キロを超える直球が投げられる投手もいるが、ほとんどはそれよりも10キロ、20キロも遅い球で勝負し、堂々と仕事をしている。
 人間としての能力の限界と、個人的な能力の限界は違うし、現実に生きる人間にとって現場の勝負では常に、自分自身の限界しか問題にならず、言いわけもきかない。
 もしも誰かが〝自分が大谷のようなスピードで投げられない自分なんて〟と嘆いていたら、笑われるだけだろう。

 誠心誠意以上の価値はない。
 生きて年をとってみれば、誰にでもわかるはずだ。
 うまくやったことなど、たかが知れている。
 誠心誠意やったことは、消えない充実感や浄い誇りとなって生を支える。
 〝こんな自分〟と思うのは誠意ある謙虚な人であり、まっとうに生きられる人だろう。
 ただし、もう少し先も考えてみよう。
 そうすれば、ありのままの自分で尽くす誠意こそが真実であり、〈もっとすばらしいはずの自分〉という幻想からきっと脱することができるだろう。
 そうなれば誠意に磨きがかかり、人間としての自力も増すに違いない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
10.24

楽観主義の危険性 ─悲しみが見せる真実世界─

2016-10-24-0001.jpg

 悲観楽観についての興味深い研究がある。 
 私たちは、もしも、自分の車が盗まれる可能性を10パーセントと考えている場合、実際の確率がデータで示され、それが予想と異なっていたならば、どう反応するだろうか?
 
○5パーセントなどと確率が低い場合

 私たちは、「ああ、そうか」とデータを理解し、自分で思う可能性をそれに合わせる。
 この時、情緒などを司る前頭葉のはたらきは高まっている。

○20パーセントなど確率が高い場合

 私たちは、データにあまり関心を持たず、自分で思う可能性を変更しない。
 この時、情緒などを司る前頭葉のはたらきは弱まっている。

 前者は、先行きを困難と考える悲観的傾向を持つ人たちである。
 後者は、先行きを甘く見る楽観的傾向を持つ人たちである。
 生命倫理などを研究している京都大学のカール・ベッカー博士は指摘する。

楽観主義とは選択的にデータに注意を払わないことによって保たれているのである。」(以下、『愛する者は死なない』より)

楽観主義者とは将来のできごとを見越せない人であった。」

「軽度のうつ病の人たちは、たいてい将来を正確に予測するのである。」

「悲しみに浸っているときの思考や感情といったものは真理値を持つように思われる。
 つまり、悲嘆はこの世界を正しく捉えているのである。」


 流行している〈前向き思考〉が孕む問題を考えさせられる。
 もしも、目の前に現実の厳しさや将来の危険を示すデータがあっても、「なあに、大丈夫さ」と見過ごしてしまえば先行きは危うい。
 悲しいできごとが起こっても、「さあ、早く忘れよう」と陽気に騒ぐだけでは、前頭葉を発達させない。
 それは、他者の悲しみや苦しみや辛さに思いが至らず、大人になれないということを意味する。

 私たちは、あまりにも、前向きになれないということについて、悲観的に考えすぎてはいないだろうか?
 なかなか前向きにさせない悲嘆の状態を、悪くばかり考えてしまう必要はない。
 悲嘆にあればこそ、それ行けどんどんの時期には気づかなかった他者の悲しみに胸をうたれ、ひっそりと咲く一輪の花にたとえようのない愛しさを感じるかも知れない。
 高々と掲げられた〈明るい未来〉の宣伝と裏腹に、たった今、歪んだ社会の谷間で呻いている人々の声を聴けるならば、私たちは、まっとうに生きる道を踏みはずさないだろう。

 カール・ベッカー博士は、さらに踏み込む。

病める魂は、われわれが望むようにではなく、あるがままに世界を見ているのである。
 神経心理学の言葉を借りれば、健全な心よりも病める魂の方がより幅広い経験や情報を処理している。」


 今年の1月18日、新聞各紙は国際NGO「オックスファム」の発表を報じた。

2015年に世界で最も裕福な62人の資産の合計が、世界の人口のうち、経済的に恵まれない下から半分(約36億人)の資産の合計とほぼ同じだった。」 

「報告書によると、上位62人の資産の合計は1兆7600億ドル(約206兆円)で、この5年間で44%増えた。
 一方、経済的に恵まれない下から半分の資産は41%減った
と指摘。
 この結果、下位半分の資産額は10年には上位388人分に相当したが、14年は上位80人分、15年は62人分と、格差は拡大しているという。
 背景には、賃金など労働への対価支払いより、株式配当など資本の投資への還元が手厚くされていることなどがある。」


 このデータ、事実を前にして、私たちはどうして楽観主義でいられようか。
 こうした世界的システムの中で、それを牛耳る人々が〈望むように〉無限の成長神話が語られ、消費を煽る映像が流され、私たちの耳目を惹き付けている。
 しかし、一人一人の人間にとっての真実は足元にしかなく、病める魂はそれを〈あるがままに〉見ているがために病んでいるのだ。

 もちろん、耐えきれない悲嘆には思いやりの手が差し伸べられねばならない。
 しかし、いつでも「前向き」が前提無しに要請され、皆がそうあれば世の中はバラ色になるかの如く語られることは異様である。
 自他の悲しみを通して見える世界にこそ真実があることを忘れないようにしたい。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。




「おん あらはしゃのう」
※今日の守本尊文殊菩薩様の真言です。どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=WCO8x2q3oeM





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2016
09.12

病院のベッドから魂が抜け出して自分のお墓を見に行った話

2016-09-12-0001.jpg

〈「唱歌を唄う会」でご指導いただいた小山裕之先生〉

 秋晴れのある日、母親と娘さんがおの引き渡しを受けに来られた。
 ご一家で考えに考えた理想のおがようやく完成し、母娘は笑顔だった。
 それから小一時間ばかり経って、寺務所へ電話が入った。
 お父さんが亡くなられたので枕経を頼むという。
 職員共々、驚いた。

 ご自宅へ駆けつけ、枕経の終了後、成り行きをお聴きした。
 病院で付き添っていた母娘は、数日前から悪化した各種の数値は気になるものの、引き渡しの約束をしていたので、当山へ向かった。
 思い通りのおを確認して間もなく、病院から至急、戻って欲しいと連絡が入った。
 まさかと思いつつ急ぐ途中で訃報を聞いた。
 厳しい闘病生活が続いていたにもかかわらず、お父さんは文字どおり眠っているようにしか見えなかったという。

「きっと、お父さん、一緒におを見に行って安心したんだよ」

 東京から駆けつけた妹が言うと、誰もが目に光を取り戻し、静かな笑顔になった。
 母親を車に乗せておを受け取りに向かった長女も急いで応える。

「きっとそうよ。
 毎日、付き添っていたのに、お母さんと一緒に病院のベッドを離れる時も、全然、心配しなかったよね。
 自分でおのスケッチを描いたりしたお父さんだから、私たちについて来て安心したんだね」

 みんなの視線があたらめて横たわるお父さんに集まり、厳粛な和らぎが居間に満ちた。
 本当にそう思う。
 住む家が完成して安心しない人がいようか。
 お父さんのあだ名は「観音様」だったという。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=EOk4OlhTq_M





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン


2016
09.10

再び、優しさを考える ─困った父親、秘訣を教える、捨てて救われる─

2016-09-10-0001.jpg
〈広島の原爆供養塔。自然墓『法楽の郷』と同じイメージです〉

 「優しさ」を考えましょう。優しさ、つまり、思いやりにまさる救いはありません。思いやられる相手だけでなく、思いやる人そのものがすでに救われています。

1 信じる

 ある時、Aさんが人生相談に来られた。
 父親がギャンブルから抜け出せない。
 Aさんと母親を心配した親戚一同が集まり、父親と別れて暮らせるようにしようということになったが、Aさんも母親もそうしなかった。
 Aさんは、困り者の父親を見捨てられない。
 苦しみつつ、老いてくる母親を支えているAさんは、呻くように言う。
「それでも父なんです」
 申し上げた。
「お父さんご自身の因縁は簡単に解けないかも知れません。
 それでも、親子の縁を切ろうとしないAさんの誠意は見事です。
 こうした事態の解決に絶対的な方法はないでしょう。
 それぞれが、それぞれのやり方で対応しつつ生きるしかありません。
 言えるのは、Aさんが事態から逃げず、お父さんを見捨てない姿勢が人としての誠意を示しているということです」
 誠を尽くす大切さは、誰かのためになるから、という面が一つ、そしてもう一つは、そうするその人そのものがそうしないではいられないから、という面である。
 この後者こそが、「信じる」意味の行き着くところ。
 信じるところから真の人間関係も優しさも生まれる。。

2 認める

 Aさんの父親は、ギャンブルの影響で事件も起こす。
 母親は何度も警察や刑務所へでかけ、父親を連れ帰った。
 Aさんは、そんな母親を哀れと思う。
 さんざんな目に遭っても別れないのは、やはり夫婦というものなのだろう。
 周囲は、母親もAさんも巻き込まれて不幸だからと、夫婦別れを促す時期もあったが、今はもう、余計な口出しをしない。
 父親は、母親にとって〈丸ごと〉夫であり、Aさんにとって〈丸ごと〉父親であり、その現実から逃げようとしない姿を知ったからだ。
 丸ごとそのままの相手を相手にするのが「認める」意味である。
 自分に都合良く、利用する部分だけ切りとって誰かを認めたりはしない。
 親が、長所も短所もひっくるめて我が子を愛おしく思う、これが本当の優しさである。

3 教える

 自分がそうなっていて気づかなくても、誰かが崖っぷちの方向へ歩いていると気づく場合がある。
 それを教えないではいられない。
 誰かに難事が起こりそうな場合も、誰かが好事をつかまえそこなおうとしている場合も、教える。
 ところで、私たちが理想的人間である菩薩(ボサツ)になろうとするならば、『大日経(ダイニチキョウ)』が説くとおり最低、4つの戒めを守らねばならない。
 一つ、正しい法を捨ててはならない。
 一つ、悟りを求める菩提心(ボダイシン)を捨ててはならない。
 一つ、正しい法を伝えず惜しんではならない。
 一つ、生きとし生けるもののために役立たねばならない。
 この3番目が問題である。
 私たちは〈つかんだ秘訣〉を自分だけのものにして、優位に立とうとする。
 それは優しさと無縁である。
 真に教えることは、自分の人生の一部を分け与えるのと同じである。
 これもまた、真の優しさである。

4 与える

 俳優の杉良太郎氏は、刑務所慰問、被災地支援、ベトナム人の里親など、ありとあらゆる慈善活動を行ってきた。
 売名と批判されても「ええ、売名ですよ」と平然として答えるらしい。
 人は普通、あって当たり前のものがないと、罪を犯すかも知れないし、死ぬかも知れない。
 戦乱の地や暴風雨で壊滅した地域などでは、世界中いたるところで食糧の略奪が起こり、暴力事件も殺人事件も起こり、餓死者も出る。
 与えられることでようやく、人倫が保たれる場面は哀しく、美しくもある。
 そうしたギリギリの地点を知っている人は、与えずにいられない。
 杉良太郎氏は、刑務所で憂さを忘れる時間を与え、被災地で生き残る安心を与え、ベトナムで向上できる希望を与え続けている。
 これが優しさでなくて何だろうか。

5 守る

 10年前の10月2日、アメリカ東部ペンシルバニア州ランカスター郡で、キリスト教の一派であるアーミッシュが運営する学校へ賊が押し入った。
 錯乱した近所の運転手が女子児童5人を射殺した挙げ句、自殺した。
 その中には、友達を救うため「私から撃って。ほかの子は解放して」と前に出た13才と11才の姉妹が含まれている。
 現場へ駆けつけた犯人の妻と子供3人はアーミッシュたちに抱擁して慰められ、妻は葬儀にも招かれた。
 アーミッシュは「善をもって悪へ応えよ」と育てられている。
 どうしても誰か、何かを守らねばならない時、私たちは自分の何かを捨てる場合がある。
 それはモノであり、時にはいのちでもあるが、核となっているのは自己中心的な思いの放棄だ。
 私たちは本当に何かを守ろうとすれば、必然的に我欲を離れ、誰かを赦し、誰かを救う。 
 自分も根本的に救われている。
 優しさはここに極まる。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=LEz1cSpCaXA





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



2016
09.09

映画『太陽の蓋』を観てください ─東日本大震災被災の記(第187回)─

2016-09-09-0001.jpg

2016-09-09-0002.jpg
〈どこか懐かしい露地〉

2016-09-09-0003.jpg
広島平和記念資料館に新しく展示された血染めの服。真っ白だったのに、いくら洗っても色が落ちないという〉

2016-09-09-0004.jpg
広島平和記念公園に立つ招霊木(アガタマノキ)は、いつ眺めても味わいがある 〉

 広島平和記念資料館でのうち合わせを終え、広島市の「横川シネマ」へ向かった。
 佐藤太監督の『太陽の蓋』を観るためだ。
 原爆から再興した時期と変わりないかのような小さな商店街の中に映画館はあった。
 数軒先に暖簾のかかった食堂があり、昼食を摂ろうと覗いたら、スタンドだけの店内は、常連客とおぼしき中高年の男性でぎっしり。
 皆さん、昼飯を食いに来たのではなく、昼酒を飲みに集まっているのだ。
 お邪魔にならぬよう早々に辞し、近くの蕎麦屋で空腹を満たして上映時間よりかなり早く映画館へ入った。
 ちょうど前の作品が終わったばかりらしく、ご高齢の男女が次々と出てくる。
 ひげ面ながら、さっぱりした風情の館主は快くホールでの待機を認めてくださり、読書をしながら待った。

 河合弘之弁護士の事務所から連絡があって知った作品は、期待を超えた完成度だった。
 あの大震災と原発事故からの5日間、政府と東電と報道機関はどのように対応し、被災した人々はどのように行動したのか?
 現役の政治家などが実名で登場する「真実のジャーナリスティック・エンターテインメント」と銘打っただけあり、充分な資料に裏付けされたことが窺える力作だ。
 制作者橘民義氏はパンフレットの冒頭で信念を述べている。

「地震国にいっぱい原発を造った人たちがいる。
 その人たちはそれを安全だと言い続けた。
 その人たちは、これほど大きな事故が起きても、子供たちが甲状腺ガンになって苦しい思いをしても、ふるさとに帰れない人が10万人以上いても、それでも反省の色もなく原発を再稼働しようとしている。
 そしてもう一つ見逃せないのは、その人たちは事故の責任を自分たちではなく、他のある一点に押しつけようと画策した
 私がこの映画を作りたいと思ったのは、事故以来今日まで大きく歪曲して伝えられた事実を正確に伝え直したいと思ったことに他はない。
 改めて検証した資料は、現場に一番近いところから選んだ。
 その場にいてモンスター(原発)と闘った人が書いた文献、虚偽の発言が許されない国会事故調査委員会の記録、どうしても事実を隠すことが出来ない東京電力に残されたビデオ、そして直接取材して得られた多くの人々の生の声などだ。
 ここから発見された新しい事実は今までの日本のメディアが伝えてきたものと大きく違う
 これら真実に一番近い情報を元にドラマとして構築した。
 この映画は世界の隅々まで広めたい。
 真の物語として100年先200年先まで残したい。」


 私たち日本人はあの時、それぞれなりの最善を尽くそうとしたのではなかったか?
 それでもなお、原発は人間が到底コントロールしきれないモンスターであることを、私たちは骨の髄まで教えられたのではなかったか?
 日本が生き残れたのは、各現場の尽力もさることながら、原発4号機の燃料プールへ水が流れ込んだ奇跡的と言うしかないできごとなど、数々の僥倖によることを知り、〈次の事故による生き残りはない〉と知ったのではなかったか?
 だからこそ、私たちはあの時、原発からの脱却を決意したはずではなかったか?

 止められた原発の再稼働について、事故に際しての避難経路の確保があらためて厳しく問われ、〈本当に逃げられるのか〉と調べてみれば、そんなことは不可能であることを、この事故と事後の経過は明らかにした。
 狭い国土に密集しながら生活している私たちは逃げようがないのだ。
 だからこそあの直後、欧米人や中国人などはこぞって日本を後にした。
 原発を造った会社は、事故を事実上〈起こり得ない〉と主張してきたが、それが虚構であることを、この事故は明らかにした。
 産・官・学が何を主張しようと、島国であり地震国である日本では、今回同様、いつ、〈想定外〉の地震や津波に襲われようと何の不思議もない以上、「安全」な原発など造りようがないではないか。

 私たちはいつの間にか、「あの時の対応が悪かったからこうなっている」というイメージを刷り込まれてきた。
 そして、「ああいうことが起こらないようにすれば大丈夫」と思わされつつある。
 この二つのイメージコントロールこそ、この映画が断罪しているものだ。
 
 プロデューサー大塚馨氏は「プロダクション・ノート」をこう締め括っている。

「本作で描けたのは震災や原発事故のほんの一片かも知れない。
 あれから5年、これからも新たな事実が次々と明らかにされていくのだろう。
 しかしながら人々の記憶は薄れ、問題意識から遠ざかる一法であることは確かだ。
 あの時発令された『原子力緊急事態宣言』は今だ解除されていない
 首の皮一枚でかろうじて何を逃れた東日本。
 その危機的状況が現在も続いているという認識をどれほどの人が持ち続けているだろうか……。
 これは本作に関わった全てのスタッフが自分自身に問いかけた疑問でもあった。
 この作品はまだ序章に過ぎない。
 そしていつの日か新たな一歩を踏み出すため、明瞭な解を得ることを願ってやまないのである。」


 仙台市における上映は「フォーラム仙台」(仙台市青葉区木町通2-1-33)にて本日まで。
 上映開始は、11時55分。
 ぜひ、一人でも多くの方々にご覧いただきたい。
 午前2時にようやく帰山したまま、この拙稿を書いている。
 真実の力が蓋をはね除けて輝くよう、願ってやまない。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

https://www.youtube.com/watch?v=qp8h46u4Ja8





[投票のご協力をお願いします。合掌]

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へにほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 真言宗へ
にほんブログ村

にほんブログ村 哲学・思想ブログ 悩み・苦しみ・迷いへにほんブログ村



blogram投票ボタン



back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。