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2011
12.28

蜜 ─『四十二章経』第三十九章─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、三年半かけて学び通す予定です。
 今回の勉強は「蜜」でした。

「仏(ほとけ)の言(のたま)わく、
『人の道(ドウ)を為(ナ)すは、猶(ナオ)し蜜を食(ジキ)するに、中辺(チュウヘン)も皆、甜(アマ)きが若(ゴト)し。
 吾が経も亦(マタ)爾(シカ)なり。
 その義皆、快(ココロヨ)し。
 行(ギョウ)ずれば道(ドウ)を得(エ)ん』」


 釈尊は説かれました。
「修行して悟りへ向かうのは、蜜を舐めるようなものです。
 さまざまな修行はどれも皆、心を高め深めるもので、それは、容器のどこにある蜜を舐めても同じく甘いのと同じなのです。
 私の説く教えもまた同じ道理で、さまざまな内容は皆、深い真理を含んでおり、それぞれに修行すれば必ず悟りへ到達することでしょう」

 釈尊は、悟られた内容を哲学論文のようにまとめ、順番に説かれたのではないようです。
 そもそも、説法を始めたのは帝釈天(タイシャクテン)の要請によるものであり、成道(ジョウドウ)後のスタートからして、求めに応じて相手のためになる内容を伝える「対機説法」でした。
 苦の内容に応じ、苦しむ人の理解能力に応じ、聞く人々の状況に応じ、問題を解決するのに最も適した教えが説かれました。
 それは、修行道場においても似たような状態だったのでしょう。
 修行が進み、たくさんの質問をする弟子はどんどんレベルを上げる一方、なかなか進まない弟子もいたはずです。
 そこで最悪なのは、わからないのにわかったつもりで、あるいはわかったふりをして先へ行こうとする態度です。
 これでは修行は偽りになります。
 今回の教えがいかなる場面で説かれたのかは定かでありませんが、もしかすると、あまり進めず焦る弟子を諭したのかも知れません。

 チューラパンダカの故事は有名です。
 暗愚でなかなか教えを覚えられないチューラパンダカが諦めようとしたおり、釈尊は「垢を除かん。塵を払わん」と唱えながら掃除するようにと指示しました。
 数年経ったある日、弟子が交代で説法する場面で、釈尊は、掃除しかしていないチューラパンダカを説法者に指名しました。
 きっと嘲る視線の集まる中、チューラパンダカは会場が静まるほどの説法を行いました。

 私はこの教えを知って以来いっそう、清掃に勤しむ方々を尊敬し、黙々と汗を流す方々を尊敬するようになりました。
 黙々と続ける精進は必ず、心にお線香の佳い香りのような徳を育てています。
 そして、空(クウ)の心でそうした人に接すれば、発散している香りに気づくはずです。
『法句経(ホックキョウ)』は説きます。
「徳の香りは風に逆らって薫ずる」
 花の香ならば風上へは流れませんが、徳の香は周囲の様子にかかわらず自(オノ)ずから香り、その情報をつかめる人には届くのです。
 立場や格好で人の心のレベルは推し量れないし、自分自身の心の鏡を磨かなければ、人が発しているものを心へ映し出せません。

 中沢新一著『鳥の仏教』に興味深い一節があります。

「チベットに仏教が根付こうとしていた初期の頃の話である。
 八世紀の中頃の東チベットにヴァイローチャナという若者がいた。
 子供の頃から大変な利発さで有名だったヴァイローチャナは、仏教の移植を図ろうとしていた王から命じられて、インドに仏教の高度な教えを求める旅に出たのだった。
 いくたの困難を乗り越えて旅を続け、ようやくシュリーセンハという師に巡り会うことのできた彼は、この師から『無為自然のままに存在の真理を知る』という教えを学んだ。
 そのヴァイローチャナがチベットに戻って最初に著した小さな書物にはなんと『知恵のカッコウ(リクパイ・クジュク)』という題名がつけられていた。
『知恵のカッコウ(リクパイ・クジュク)』の内容はとても高度で、つい先頃まで原始的な段階の宗教に甘んじていた民族が、いきなりこのような認識と表現にたどり着けたとは思えないほどである。
 ここから見えてくるのは、ボン教という仏教以前の新石器型の宗教が、すでにたいへんに高度な形而上学の思考を行っていたという事実ではないだろうか」


 ヴァイローチャナは大日如来を意味しますから。この若者はきっと神童だったのでしょう。
 また、チベットなどで、カッコウはシャーマンに霊力を与える神聖な鳥であるとされています。
 こうしたことを考えると、人はどうやって心を磨くか、心を磨くものは何であるか、そうしたことごとの多様性に「仏性」と「マンダラ」を感じます。
 私たちはひとしく悟りを開く能力の源である仏性(ブッショウ)を持っており、人の顔がそれぞれであるように仏性の輝き方もそれぞれであり、多様なままに救われるという真実がマンダラの深意ではないでしょうか。

 やはり、釈尊が説かれたとおり、仏法は無限の蜜です。
 縁に応じて舌に触れた時、その甘さに心を打たれるすなおさが肝要です。
 そして、その甘さを自分だけが味わうのではなく、ご縁の方々にも味わってもらいたいならば、自他の味覚を磨き、蜜に潤される世界へ飛び込みましょう。
 磨く方法は蜜を舐めることにあるとは、何と至福の成り行きでしょうか。

〈『鳥の仏教』より〉
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2011
09.02

聖地への旅 ─『四十二章経』第三十八章─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、三年半かけて学び通す予定です。

 7月25日の勉強は「実践」でした。

「仏(ホトケ)の言(ノタマ)わく、
『弟子の吾(ワレ)を去り離るること数千里(シュセンリ)ならんも、意(ココロ)に吾(ワ)が戒を念ずれば、必ず道(ドウ)を得ん。
 吾(ワ)が左側(サソク)に在(ア)りとも、意(ココロ)、邪にあらば、終(ツイ)に道(ドウ)を得ざらん。
 其(ソノ)実(ジツ)は行(ギョウ)にあり。
 近くして而(シカ)も行ぜずんば、何(ナン)ぞ万分(マンブン)も益(ヤク)せんや』」


 釈尊は説かれました。
「弟子が私のもとを去り、数千里離れた所にいたとしても、心に仏の戒めを保って怠らなければ、必ずや、仏道を会得することでしょう。
 たとえ私のすぐ側にいても、心が戒律から離れていれば、決して仏道は会得できません。
 教えが生き方に反映されるかどうかは、戒めを保つ行に徹するかどうかにかかっています。
 たとえ私の近くで生きていても、自分自身で行に徹しなければ、実践者の万分の一すら血肉になりません」

 ある時、二人の若者が釈尊のもとを目指してに出ました。
 途中で困っている人に出会いました。
 見捨てておけないと考えたAさんは、その人にかかりきりとなってをあきらめました。
 一方、真理を学ぶこと以上、大切なことはないと考えたBさんは、そのまま釈尊の精舎(ショウジャ…修行道場)をめざしました。
 そして、Bさんが説法の場に参加した時、神通力で二人のできごとを見ておられた釈尊がこの教えを説いたとされています。

 Aさんのように〈見捨てておけない人〉になったなら、仏道は半分、成就したも同然です。
 慈悲とは、分け隔て無く〈苦を抜き、楽を与える〉ことだからです。
 Aさんはいつの日かきっと、空(クウ)を観る智慧がはたらくようになり、あとの半分も成就できることでしょう。
 聖者に会おうとし、あるいは聖地を訪れようとして足を運ぶ善男善女の姿は尊いものです。
 日本のような国ならば、いつでもどこへでも、便利に行けますが、そうした行動の許されない国や場所が世界中にあります。
 いずれにしても、すべてを離れ、ただ〈目指して歩く〉人には神々しさがあります。

 ところで、最近、釈尊の生誕地を開発する計画が持ち上がりました。
 ネパール南部のルンビニー(世界遺産)を開発しようとしているのは、香港のNGO「アジア太平洋交流協力基金会」。
 資金2300億円は世界中から集めるとしていますが、実際は中国資本だろうと言われ、地元では警戒を強めています。
 なぜ、インドから数キロの聖地に国際空港、ホテル、ショッピングモール、寺院、仏教大学、博物館などをつくろうとしているのでしょうか。
 資本の論理でお金がお金を生む地域になった途端、聖地聖地でなくなります。
 それは、チベットの主たる寺院が行者である僧侶ではなく、中国資本と中国軍による管理下におかれ、完全に観光施設化したことで実証されています。
 寺院は修行道場でなく、信仰の対象でなく、生きたまま聖地としてのいのちを奪われ、遺跡になったのです。
 チベットで味をしめた中国が、収益と宗教弾圧との両方をめざしてこのプロジェクトに関わっているのは明らかです。
 ネパールでは、賛否が政治権力の争いともからんでいるとされていますが、2500年間、聖地を守ってきた人びとの心を信じたいものです。

 聖地へ足を運び、聖人に会えば他では得られない体験ができます。
 それは、いかに情報化社会になろうと変わりありません。
 日本では中高年の聖地巡りが流行っているそうです。
 聖地とは何か?
 でかける心はいかにあるべきか?
 よく考えて見ましょう。

〈セミの声を聴き、山を眺め、もの想いにふけるクロ〉
20110901 0132



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2011
09.01

命のありか ─『四十二章経』第三十六章─

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 6月27日の勉強は「命のありか」でした。

「仏(ホトケ)、諸(モロモロ)の沙門(シャモン)に問いたまわく、
『人の命は幾(イクバ)くの間(アイダ)に在(ア)りや』
対(コタ)えて曰(モウ)さく、
『数日(シュニチ)の間(アイダ)に在(ア)り。』
仏(ホトケ)の言(のたま)わく、
『子(ナンジ)未(イマ)だ能(ヨ)く道(ドウ)を為(ナ)さず』
復(マタ)一(ヒトリ)の沙門(シャモン)に問いたまわく、
『人の命は幾(イクバ)くの間(アイダ)に在(ア)りや』
対(コタ)えて曰(モウ)さく、
『飯食(ボンジキ)の間(アイダ)に在(ア)り』
仏(ホトケ)の言(のたま)わく、
『子(ナンジ)未(イマ)だ能(ヨ)く道(ドウ)を為(ナ)さず』
復(マタ)一(ヒトリ)の沙門(シャモン)に問いたまわく、
『人の命は幾(イクバ)くの間(アイダ)に在(ア)りや』
対(コタ)えて曰(モウ)さく、
呼吸の間(アイダ)に在(ア)り』
仏(ホトケ)の言(ノタマ)わく、
『善(ヨ)い哉(カナ)、子(ナンジ)、道(ドウ)を為(ナ)せる者と謂(イイ)つべし』」


 釈尊は出家修行者たちへ尋ねました。
いのちは、何と何の間にあるのだろうか」
 一人の行者が答えました。
「一日一日と、日が経つところにあります」
 釈尊は言われました。
「君はまだ仏道がよくわかっていないようだね」
 釈尊は再び、出家修行者たちへ尋ねました。
いのちは、何と何の間にあるのだろうか」
 一人の行者が答えました。
「食事と食事の間にあります」
 釈尊は言われました。
「君はまだ仏道がよくわかっていないようだね」
 釈尊は再び、出家修行者たちへ尋ねました。
いのちは、何と何の間にあるのだろうか」
 一人の行者が答えました。
呼吸呼吸の間にあります」
 釈尊は言われました。
『そうです。
 君は仏道をわかっていると言えます」

 解釈の必要がないほど明確な教えです。
 一日、一日と経つ日を指折り数えるのは、娑婆で生きる時と変わりありません。
 大震災で被災された方や、救援している方々から聞きました。
「避難所暮らしで最も辛いのは、生きるための食料や衣料品にはこと欠かなくても、何もすることがないままに一日が過ぎることです」
 こうしたお話を耳にするたび、胸の潰れる思いがします。
 ご来山された方々へは守本尊様の真言を唱えることなどをお勧めしますが、何もできない自分がもどかしくてなりません。
 食事と食事の間というのは、生きるために必ず食べねばならないので、かなり根源的な感覚ではあっても、それけではイヌやネコとあまり変わりません。
 釈尊が呼吸の間にあるという答へ二重丸をつけられたのは、確かな一瞬をつかみ、そこにすべてをかけて生きるのが行者の姿勢だからです。
 たった今、確かに修行しているその瞬間以外のどこにも、自分のいのちはありません。
 また、呼吸は最も根源的な〈生の確信〉をもたらしますが、そこを観るのは、呼吸のない死を観ることに通じています。
 次の瞬間、自分の生がポンと死へ転換したとしても、まったく不思議はないのです。

いのちがどこにあるか?」という問は「自分は何をなすべきか?」に通じています。
 答は、「呼吸の間(アイダ)に在(ア)る」生と、裏に貼り付いている死を観ればきっと出てくることでしょう。
理趣経(リシュキョウ)』の「百字偈(ゲ)」になじんでいれば、その確率が上がること請け合いです。
 当山の境内地に安置している釈尊の修行像の前でたたずむ時間も、きっと役立つことでしょう。

〈薄明の中で咲いていました〉
20110831 0032



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2011
06.21

『四十二章経』第三十五章 ─八つの難事─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
 毎回、一章づつ、三年半かけて学び通す予定です。
 5月30日の勉強は「難事」でした。

「仏の言(ノタマ)わく、
『夫(ソ)れ人、三悪道を離れ、人為(タ)るを得ること難(カタ)し。
 既に人為(タ)るを得(ウ)るも、女(ニョ)を去って男(ナン)に即(ツ)くこと難(カタ)し。
 既に男(ナン)為(タ)るを得るも、六情(ロクジョウ)完具するは難(カタ)し。
 六情(ロクジョウ)既に具するも、中国に生ずるは難(カタ)し。
 既に中国に処すとも、仏道に値(ア)い奉ること難(カタ)し。
 既に仏道を奉ずるも、有道(ウドウ)の君に値(ア)うは難(カタ)し。
 菩薩(ボサツ)の家に生ずること難(カタ)し。
 既に菩薩(ボサツ)の家に生ずるも、心を以(モッ)て三尊(サンゾン)を信じ、仏世(ブッセ)に値(ア)うこと難(カタ)し』」

 釈尊は、人生における難事を8つ挙げられました。

1 果てしない苦に苛まれて出口のない地獄道に生まれたり、何かを得ても得ても不足感に苛まれる餓鬼道に生まれたり、互いに喰い合う畜生道に生まれず、人間として生を受けるのは難事です。
 目に見える生きものの種として考えても、人間は、175万種といわれる自然界にいる生きものたちからすれば、ほとんどゼロに等しい存在です。
 その割にはあまりに大きい顔をし過ぎているような気がしてなりません。
 石牟礼道子氏は、大震災をこう考えたそうです。
「息ができなくなっていた大地が深呼吸をして、はあっと吐き出したのでは。
 死なせてはいけない無辜の民を殺して。
 文明の大転換期に入ったという気がします」

2 同じ人間でも女性ではなく男性に生まれるのは難事です。
 この一項は、子供を生む性である女性を汚れたものと観る世界的差別意識の産物であり、無論、釈尊自身にそうした思想はありません。
 男女の区別亡く救い、女性修行者をも認めていました。

3 男性(人間)に生まれても、目・耳・鼻。舌・膚・意識六つの感覚器官を具備するのは難事です。
 六情は、喜・怒・哀・楽・愛・悪の六つの感情を指しますが、仏教では六官という六つの感覚器官のことです。
 生まれながらに障害のある方もおられ、あるいは生きている間にどれかを失う方もおられ、すべて揃っている状態は当たり前のようであって、そうでもないのです。
 また、目のはたらきが特に優れてたり、耳のはたらきが特に優れていたりと、六つのはたらき方は人それぞれであり、〈何があって何がない〉という考え方ではなく〈与えれたものを活かす〉ことこそ大切であるし、十全に活かすことは難しいと考えたいものです。

4 感覚器官が具備していても、文化の進んだ中心的な場所に生まれて学ぶことは難事です。
 新しい思想である宗教である仏教は、当時、世界のどこででも接することができるほど普遍的ではなく、広く流布したインドでなければ、中国でも都市部でしか知られていなかったのではないでしょうか。

5 文化の進んだ中心的な場所に生まれても、仏道に接することは難事です。
 当然、求道心や縁がなければ、学び実践するわけにはゆきません。

6 仏道に帰依しても、実践者たる指導者に会うのは難事です。
 修法上の極意など仏法の肝心な部分は必ず、師僧から弟子への直伝になります。
 それは、器の水を別な器へ移すようなものであると説かれています。
 この場合必要なのは、まず、師が法を結べる行者であることです。
 供養法であれ、祈祷法であれ、加持法であれ、知っているだけで法力を備えていなければお次第は絵に描いた餅でしかなく、実際の役に立たず、弟子へ伝授できるのは形式でしかありません。
 次に必要なのは、伝授を受ける弟子が法の価値に合った器を持っていることです。
 だから、師僧の大切な仕事の一つは器量の判断です。
 師に会い、弟子に会うのは実に難事です。

7 自他共に仏道の成就を願う菩薩(ボサツ)道を歩む人の家に生まれるのは難事です。
 世間は厳しく、自分や家族がまっとうに活き活きと行きてゆくこと自体、容易ではありません。
 だから、どうしても自分中心でがんばろうとします。
 世間の厳しさの根が、自分自身の持つ自己中心的姿勢や、無常を忘れた勝手なこだわりにあることに心の底から気づく余裕がないのです。
 江戸時代に寺子屋で使われていた『実語教・童子教』を学んでいると、長屋に住む庶民の間にたくさんの菩薩様がおられたのではないなどと夢想してしまいます。

8 菩薩(ボサツ)のいる家に生まれても、自分自身が心から仏法僧を信じ、み仏にお会いするのは難事です。
 たとえば親が至心に仏壇へ手を合わせていても、子供や家族が同じようにするかどうかはわかりません。
 親が世のため人のためと汗を流す人生を送っているからといって、子供も同じ姿勢で世を渡るとは限りません。
 立派すぎる親が反発の対象になったり、世間様へ迷惑をかけるだけの親が反面教師になったりするものです。
 結局は自分自身の心次第でしかなく、仏道を歩む決心をすることが一番の難事と言えるのでしょう。
 ところで、周囲になかなかみ仏はおられませんが、生き仏様のような方は案外、おられるものです。
 そうした方を見いだすのもまた、自分の求道心でしかありません。
 自分自身が、たとえ一日に一分でも、み仏の心になる生き方をしていれば、魂の音叉は共鳴をもってみ仏のような方との巡り会いを導くのではないでしょうか。

〈朝靄の中の釈尊と花々〉
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2011
04.26

『四十二章経』第三十五章 ─苦─

 このページは、機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと一緒に、中国へ伝わった最初の仏教経典とされている『四十二章経』を学ぶ過程を綴っています。
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 4月25日の勉強は「」でした。

第三五章 

「仏の言(ノタマ)わく、
『人、道(ドウ)を為(ナ)すは亦(マタ)なり。
 道(ドウ)を為(ナ)さざるも亦(マタ)なり。
 惟(オモ)うに、人は生(ショウ)自(ヨ)り老に至り、老より病に至り、病より死に至る。
 その無量なり。
 心悩み、罪を積(カサ)ぬ。
 生死(ショウジ)息(ヤ)まず、その説き難(ガタ)し』」

 釈尊は説かれました。
「人が修行道を歩み、悟りを得ようとしても、なかなか、ままならないものである。
 そうかといって、修行せず、気ままに生きても叉、ままならないのは同じである。
 よく考えてみると、人は、生まれる時も、老いても、病気になっても、そして死を迎えるのも、すべては意のままにならず、苦が伴う。
 その〈ままならなさ〉は、人生を覆い、果てしない。
 悩みは心から離れず、いつしか罪を重ねてしまう。
 人はこうして生まれ、死に、輪廻転生(リンネテンショウ)をくり返す存在であり、悟らない限り、苦の果てることはない」

 仏法は釈尊の一言から生まれました。

「こは苦なり」。

 この言葉には前段があり、釈尊は林の中を歩いて木の葉を手にしながら説きました。

「私は木の葉ほどたくさんのことを知ったが、皆が悟りへ向かうために役に立つ言葉として説くべきものは少ないから、四つしか説かなかったのである」。
「こは苦なり」。
「こは苦の生起なり」。
「こは苦の滅尽なり」。
「こは苦の滅尽にいたる道なり」。

 要は、「私たちの生は根本的に苦であり、それには原因があり、原因を除去すれば苦はなくなるのであり、そうするには方法がある」というのです。

 当然、悟りを開いた釈尊の言葉として経典になっていますが、「こは苦なり」を口にしてみるたびに、若く聡明で繊細な釈尊は、娑婆にいる段階ですでにこのことを骨身に染みように感じていたからこそ、日常生活にまつわるすべてを離れて行者になられたのであろうという思いが固くなります。
 この深い慨嘆(ガイタン…やるせなさに憂い嘆くこと)が、仏法という泉から清水を流れ出させる力になったのではないでしょうか。

 人は、釈尊より遥か昔から、ままならないやるせなさを知っていました。
 天変地異によるいのちや財物の喪失、病気や戦いによる死、愛憎など人間関係の葛藤、──。
 実に人生は苦なのですが、人は皆、そこから逃げようとし、逃げる方法として楽を求めました。
 今を楽しむこと、勝者になること、地位や財物や家族に守られること、──。
 しかし、誰一人として死から逃れられないように、苦からも逃れきれません。
 たとえ強大な国の国王になろうが、否応なく老いて病み、心にある悪や欺瞞を自分は知っており、死に行く愛する者を死神から奪い返すことはできません。

 釈尊はただ一人、逃げようとはしませんでした。
 鳥についばまれる虫に、老いて斃れる人に自分を重ね合わせ、人とこの世を覆う苦の全体を相手にして「なぜ?」と問い「どうすれば克服できるか?」と問われたはずです。
 人間存在の根となっている問題について究極の問いを問い続け、苦から逃げずに克服されたからこそ、真の聖者となり、不変の真理を示すことができました。
 だからこそ釈尊は、私たちへ、「まず、そこに立て」と厳しく、くり返し、説かれます。
 ままならないから逃げようとするのではなく、ままならない状況を全身全霊で受け止め、その根本原因を見極めよと説かれます。
 この態度を貫くためには、自分だけがままならないのではなく、皆がままならないことを知る、言いかえれば、「他者の苦を我が苦と受け止める」ところまで行かねばなりません。
 なぜなら、〈自分だけ〉の問題なら、いくらでも逃げる方法を思いついてしまうからです。
 しかし、たとえば子供が病気になった時、逃げられましょうか?
 自分が闘病生活を終わりにしようと思えば、真の解決方法であるあるかどうかは別にして、心理的には選択肢として自殺もあり得ますが、病気で苦しむ子供を前にすれば、看病以外の選択肢はなく、逃れる先はありません。
老老介護の果ての自殺や心中などには、堪えきれない思いになります)
 自分も、この人も、あの人も、そしてこういう場面で、ああした場面で、苦しんでいる以上、「なぜ?」はすべてに共通する答を得るまで止まりません。

 釈尊は「自他の苦を受け止めよ」、「すべてに共通する原因を問え」、そうした上で「この真理を体得せよ」と徹底的に指導されたのではないでしょうか?
 こうした経過をたどらずに説かれた理論だけを知っただけでは、〈真理を生きる〉ことはできません。
 東日本大震災においても、全く同じです。
 地震で、津波で、あるいは避難所で逝かれた方々の無念を思い、被災された方々の苦を思い、自分の身に置き換えて受け止めない限り、与えられた試練を克服できず、真の慰霊はできません。
 逃げるのか、それとも克服するのか。
 私たちは、選択を迫られています。
 それをじっと観ておられるのは、み仏であり、神々であり、ご先祖様であり、御霊方であり、そして世界中の人々であることを肝に銘じて、今日を生きたいものです。

〈共に咲く力〉 
230425 004



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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