『四十二章経』第三章 善行と悪行
勤行に続く『四十二章経』の勉強は、第三回目です。
釈尊は、十の善行と十の悪行を示されました。
それは、身体を用いる三つと、口を用いる四つと、心を用いる三つです。
まず身体を用いるものとしては「殺」と「盗」と「婬」です。
無益に他の生きものを殺さなければ善行、殺せば悪行です。
同じように、自分に与えられていないものを手にしなければ悪行、手にすれば悪行です。
道に外れたセックスでなければ、あるいは特殊な修行中にセックスを行わなければ善行、乱れたセックスは悪行です。
次に、口を用いるものとしては「両舌(リョウゼツ)」と「悪罵(アクメ)」と「妄言」と「綺語(キゴ)」です。
仲違いさせぬような言葉を用いれば善行、仲違いをもたらす言葉を用いれば悪行です。
粗暴な言葉を用いなければ善行、粗暴なもの言いで相手を不快にさせれば悪行です。
嘘をつかず真実を口にすれば善行、相手へ事実に反する情報をもたらそうとすれば悪行です。
無駄話や飾り言葉を口にしなければ善行、貪りや怒りや愚かさがもたらす自慢話、弱点への攻撃、愚痴などに走れば悪行です。
次に、心を用いるものとしては「嫉」と「恚」と「痴」です。
他人の持ちものを気にしない精進ならば、自分にないものを持っている相手への嫉みが起こらず、善行ですが、他人の持ちものが欲しくてたまらなくなれば必ず嫉みが発生し悪行になります。
他人を憎まず、傷つけようと思わなければ善行ですが、憎い相手を苦しめようと考えれば悪行です。
善因善果などを信じ、実在しないものを実在しないと考えれば善行ですが、因果応報を否定し、ないものをあると考えれば悪行です。
これらを考えると、善行とは「道理にかない、自他に真の利益をもたらす行為」となりましょう。
反対に、悪行とは「道理に反し、自他に真の利益をもたらさない、あるいは利益を破壊する行為」です。
釈尊は、
と説かれました。「三尊を信じざれば、邪をもって真となす」
仏法僧を信じ、戒律を守れば
とも説いておられます。「必ず道(ドウ)を得るなり」
信じ、学び、善行に邁進すれば、迷わず、惑わず、み仏の子としての道をまっすぐに歩めるようになるのです。
なお、次回の『法楽』作りは9月29日です。
地鎮式が終わりました
ご案内が間近だったにもかかわらず駆けつけてくださった方々のお顔を見ながら、当山が次のステップへと進んでいることを実感しました。
そして、1052年に72歳で亡くなった高僧アティーシャと弟子のやりとりを思い出しました。
弟子が訊ねる。
「現世に執着すればどうなりますか?」
アティーシャは答える。
「現世のためになる、それだけである」
弟子は再び訊ねる。
「現世に執着すれば来世はどうなりますか?」
アティーシャは即答する。
「地獄、餓鬼、畜生に生まれる」
お集まりの方々は、どなたも現世的な問題と真正面から格闘しながら、そこを超えた次元を観ておられる、あるいは、当山との関係においてそれを観ようとしておられるように思われました。
テントを叩く激しい雨音は、心中で荒れ狂う内面的煩悩の嵐であり、シャワーのように魂へ降りかかる外面的煩悩の嵐です。
しかし、テントに囲まれ、八方天地へ結界を張った空間は別世界であり、皆さんの瞳は活き活きしています。
参加者全員に交代で「鍬入れ」をしていただいた時の、和やかで希望に満ちた雰囲気は忘れられません。
ご参詣された方々、また、足は運べなくともお心をお寄せくださった方々は、明らかに聖地との仏縁を強められました。
現世で地獄、餓鬼、畜生の三悪道を脱し、来世の暗い運命を打破する善行を実践された方々と共に、新たな世界へ踏み入りましょう。
不共業(フグウゴウ…個人的に積む業)と共業(グウゴウ…社会的に積まれる業)を清める世界へ──。
葬式仏教というけれど
法を結んでこの世とあの世の区切りをつけるためには、行者としてのすべてをかけねばなりません。
向こう側の世界を明確に感得して引導を渡すためには、自分がこちら側にとどまらねばならないだけに、自分自身が超えて行く以上のエネルギーを必要とします。
人一倍罪が深いからこそ、こうした役割が廻ってくるのでしょう。
修法が終わると皆さんから感謝されますが、感謝せねばならないのは、むしろ行者の方です。
どんなにヘトヘトになっても、退場の時にご遺族から起立してお送りいただいたり、会食の法話が終わって拍手が起こったりすると、法務へ向かう気力が回復します。
私たちの使命は、ご縁の方々に「この世の幸せとあの世の安心」を得ていただくことにあります。
皆さんがそれらを得てくださったと感じる瞬間があればこそ、また、励むことができます。
ご縁の方々の幸せと安心ほど、行者を支えるものはありません。
とにかく、今日の地鎮式と明日の『法楽』作りが終わるまでは、まったく息が抜けません。
一段落したなら、日本の歌や四国遍路について、また書きましょう。
ほめる 6
このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださいました。
頭が下がります。
勉強会などを通じて、ご縁の方々へご紹介しており、寺子屋の指針にさせていただきたいと願ってもいます。
二年 M・O
3月23日の朝、いっぽ足を だそうとしたら、車がきました。とおるまで、まっていると、車にのっていた人が、あたまをふってくれました。
あとから、どうしてあたまを ふってくれたのかなと、考えたら、「ありがとう」といういみだとわかりました。
やさしい おじさんだと 思いました。
◆
まさ子さん、
きょうも また、ほめほめ ありがとうね。だんだん字が きれいになるので、校長先生は、うれしいよ。
学校にくるときのことですね。どうろを、よこぎろうとしたら、車がきたのね。あぶないので 車がとおりすぎるまで、まっていたんですね。そうしたら、車のおじさんが、あたまをふって「ありがとう」をしてくれたんですね。
まさ子さんが、とまってまってあげたから、車のおじさんが、よろこんで、おれいをいってくださったんですよね。
よいことをしましたね。むりをして、みちをよこぎると、大へんなことになります。
これからも、こうつうのきまりを よくまもって、学校にきたり、おうちにかえったりしてくださいね。
歩行者が待っていてくれたからといって「ありがとう」のシグナルを発する運転手は、きっと、まれに見る好人物なのでしょう。
まさ子ちゃんは危ないから車道へ出ないだけだったので、何のことか解らなかったのは当然です。
やがて気づいて、見知らぬおじさんの優しさを知りました。
相手の「ありがとう」に対して「優しい人だな」と思ってほのぼのした気持になる、この体験が貴重です。
次は、自分が「ありがとう」を発することによって相手がほのぼのした気持でニッコリし、それを受けて自分もまたほのぼのした気持になる体験が待っていることでしょう。
「ありがとう」は、実に、こうした温かい気持の交流を起こす最高の言葉です。
宮床の子供たちは、渡らせてあげようと思って車が止まると、歩道を渡りきってから必ず振り向いて会釈してくれます。
それも、割合大声の「ありがとうございました!」を伴っています。
この「ありがとうございました!」は、宮床に住む者の誇りと思っています。
全国津々浦々の子供たちにこうした習慣がつけば、きっと、世の中は徐々に変わることでしょう。
こうして子供たちは社会を見ているんですね。三年 N・K
きのう本通りの方へいきました。と中、男の人が、赤ちゃんをだいて乗りました。バスがこんでて、すわることができなかったので、赤ちゃんをかた手にだいて、つりかわを持っていたので、とてもたいへんそうだな。と思っていました。するととなりにすわっていた女の人が、席をゆずってあげました。そのとき、校長先生が「いいことをしたら、いいことをされた人も、した人も、いい気持ちになるんだよ。」と、おっしゃったのを思い出して、「あの女の人も、男の人も、いい気持ちになったんだろうな。」と思いました。
◆
直子さん、
すばらしい字のほめほめですね。きれいな字のお手紙は、読む人の心を楽しいものにしてくれます。おかげで、きょうのほめほめが二倍楽しいものになりました。
きょうのほめほめは、バスの中でのことでしたね。満員のバスの中で、赤ちゃんをかた手にだいて、しっかりとつりかわをにぎっていらっしゃった男の人に、近くにすわっていらっしゃった女の人が、席をゆずってあげていたといういみのお手紙でしたね。
かわいい赤ちゃんをだいて、両足をふんばりながら、一本のつりかわを力いっぱいにぎりしめていらっしゃる男の人のようすが、目に見えるようです。
やさしい女の人がいらっしゃってよかったと、校長先生は ほっとしました。
O小の、ほめほめの心は、この女の人のように、よいと思ったことを、強い心で実行する人になりましょうということです。直子さんも がんばってね。
もし、誰も席を譲る人がいなかったなら、直子ちゃんはどうなったのでしょうか。
きっと、やるせない、悲しい、辛い気持になったことでしょう。
がっかりしたかも知れません。
席を譲った人の行為は、その人が布施行によって善業を積み、福徳を得る原因をつくっただけでなく、見知らぬ直子ちゃんの心にも大きな影響を与えました。
「いい気持ちになったんだろうな」と想像することは、自分も同じ行為ができる人間になるための第一歩だからです。
きっと、直子ちゃんの心では、善行を実践するための準備が進んでいることでしょう。
校長先生の「よいと思ったことを、強い心で実行する人になりましょう」には信念がこもっています。
ご自身がこうした心で生きておられればこそ、はっきりと指導できるのでしょう。
善き人が善き人を創るという尊い成り行きが明らかになっており、合掌したくなります。
校長先生のように生き抜きたいものです。


















